知っていればいい、ということはない

気温は最高記録を更新、例年類を見ない異常気象。今年は特にひどいから、この夏だけは本当に熱中症に気を付けよう。

そんな文言を毎年目にするようになったのも、もう最近のことではなくなった。私が生まれてからずっとそんな風だった気さえしてくる。

私の母方の祖父は、数年前から病院で寝たきりの生活を送っている。5年程前だったと思う。祖父母が暮らす、静かな町の2DKの自室で突然倒れたそうだ。数年の間に病院をいくつも移動させられ、終末期医療を提供されるターミナルに入院するに十分な容態になった。

21世紀の科学に基づく現代を生きる私は、オカルトの類は信じない。なのだが、実家へ帰省をするついでに、入院している病棟へ足を運んで見た。なんとなく、ふと、そうしないといけない気がした。

私の耳は聞こえなくなってしまったのではないか。そう感じられるほど、病室は静寂の中心地にあった。祖父は、音のなっていない備え付けのテレビの、昼過ぎのワイドショーを見ていた。ベットの上で横になり、信じられないくらい虚ろな目をして、何かを軽蔑したような表情だった。膝が常に曲がっていて動かないから、ズボンを完全には履けていない。その下にはオムツを着けているのがわかる。テレビを覗くように、首だけ体の正面から90度回転させている。両手にはミトンを装着し、腕は器具で固定されていた。その体中に突き刺さった管を抜かないように。とても酷くて、ひどく効果的だと思った。しょうがないことだとも思った。声をかけるとこちらを見る、反応自体はまだできるようだ。でも、そこに言葉はない。こちらから会話を試みても、意味のある言葉が返ってくることはない。苦手、という言葉では到底補えないほどのコミュ力を披露するクラスメートを思い出した。その子は頷くばかりで、会話をどうにか続けようと躍起になる私のほうがバカみたいに感じられた。それと異なるのは、祖父は、喃語のような、「あー」という音を発することができた。喉から絞り出したような、これが限界、という意思を伝えるための、静かなうめき声である。静寂の中にある病室で、それはよく私の耳に響いた。

テレビをよく見る人だな、と、病室で少しナイーブになった私の心を、少しだけ軽くさせてくれたのはそれだけのことだった。まだ倒れる前、静かな町の、静かな家にいた頃。私の家族と、いとこが全員集まって、祖父母と夕食を一緒に取ることが何度もあった。私の母は優しくて、気の遣える人だから、2DKで寂しさを感じる祖父母のことを想ったのだろう。ひどい暑さの夏に訪れた時も、あけましておめでとうを伝えに行った時も、祖父はPCディスプレイほどの画面の前に、いつも同じように座っていた。ただ、本当にそれだけだった。それ以外の姿が何も脳内に思い浮かばないくらい。

大切なものは失ってから気づくものだ!と誰しも聞いたことがあるだろう。しかし、そんなことはありえないと思う。中学2年生の私の、教師のなかでは新米であろうまだ若い担任の口癖として聞いたことを覚えている。この教師は無知蒙昧、浅学菲才で、それゆえの苦難を一体どれだけ乗り越えて成長するのだろうと、当時の私は期待を込めてエールを送った。今思えば、冗長な講釈をHR30分押しぐらいまで垂れやがる担任自体が気に食わないだけであったのだが、とにかく誰かを見下しておきたいお年頃の私には、その言葉が嫌に耳にこびりついていた。「大切なもの」とは、誰かに盗れないよう、落として失わないようにしっかり管理しておくものだ。ここで言っているものは、スマホとか、家の鍵とか、財布、通帳、お気に入りのキーホルダーとか、そういう所謂物質的なものではないだろう。失っても困らないわけがないのだから、世間のどんな頭のおかしいやつでも大切だと気付いている。多分、友人や家族、恋人のような人のつながり、地位や名誉、ひいては現在の自分の生活に至るまで、何か、現状、のようなものを言っていると解釈できる。だとしても、それがいつか失われるものであると気づけない人は愚かとしか言いようがなく、国民みんなでそいつを憐れむべきだ。現状、とは今目の前の光景と状況のある一瞬の時間であり、全くそれ以上の時間の意味ではない。決して、面のような、広く広がる「今」ではない。大切なものなんて、誰も所持できていない。だから、いなくならないように、失わないように、しっかり見て、自分で考えて、自分で管理しなければならない。

私は、私を憐れむべき存在であることを皆様に周知していただくため、この文章を書く。私にとってはほぼ自戒のようなものと言ってよいかもしれない。大変生意気だった中学2年生の私の心は、いったん失くしてしまったこともあるが、今も受け継いでいるし、決して忘れることはなかったと自負している。無知な私は今朝、祖父を無くしたことを知った。

コメント

タイトルとURLをコピーしました